2015年1月27日火曜日

絶望のその先に


どうして、昨年(2014年)5月末に、何もかもが終わり、解放されたのだろう?

あのとき、わたしは絶望しきっていました。

努力と理性で生きようとして、頑張って頑張って生きてきて、うまくいかなくて、それでも頑張って。

それは、妊娠して出産したい、いい子でいれば愛される日がくるという「希望」を持ち続けた日が、暗転して、もう無理なのだ、とはっきりと諦めた日でもありました。

諦め、という言葉は「明らかに見る」とよく言われますが、

わたしはそれまで、明らかに見ようとしていませんでした。

砂漠にチューリップの苗を植えたところで、育つわけがないのです。それを努力でなんとかすればなんとかなる!と力を入れて主張していたのでした。

絶望して、ようやくクリアな目で、物事を見ることができました。

そして、肩の力が抜けました。

生死も、出会いも、「私」(エゴの部分)は介入できない。

流されるのが嫌で、必死でもがいてきたけれど、そのまま流されるまま、泳ぎもせずただ浮いているだけでもいい。

そんなふうになったとき、生命の泉に浸っている自分に気がついたのでした。

まるでお釈迦様の手の平の上を飛んで飛んで、地の果てまで来たと思い込んで誇らしげに見たら、まだ手の平の上だったという孫悟空のようです。

激流、荒波をくぐり抜けた気でいましたが、ずっと穏やかな命の泉で、ちゃぷちゃぷと遊んでいただけでした。

そしてそれで良いのでした。






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