どうして、昨年(2014年)5月末に、何もかもが終わり、解放されたのだろう?
あのとき、わたしは絶望しきっていました。
努力と理性で生きようとして、頑張って頑張って生きてきて、うまくいかなくて、それでも頑張って。
それは、妊娠して出産したい、いい子でいれば愛される日がくるという「希望」を持ち続けた日が、暗転して、もう無理なのだ、とはっきりと諦めた日でもありました。
諦め、という言葉は「明らかに見る」とよく言われますが、
わたしはそれまで、明らかに見ようとしていませんでした。
砂漠にチューリップの苗を植えたところで、育つわけがないのです。それを努力でなんとかすればなんとかなる!と力を入れて主張していたのでした。
絶望して、ようやくクリアな目で、物事を見ることができました。
そして、肩の力が抜けました。
生死も、出会いも、「私」(エゴの部分)は介入できない。
流されるのが嫌で、必死でもがいてきたけれど、そのまま流されるまま、泳ぎもせずただ浮いているだけでもいい。
そんなふうになったとき、生命の泉に浸っている自分に気がついたのでした。
まるでお釈迦様の手の平の上を飛んで飛んで、地の果てまで来たと思い込んで誇らしげに見たら、まだ手の平の上だったという孫悟空のようです。
激流、荒波をくぐり抜けた気でいましたが、ずっと穏やかな命の泉で、ちゃぷちゃぷと遊んでいただけでした。
そしてそれで良いのでした。
生死も、出会いも、「私」(エゴの部分)は介入できない。
流されるのが嫌で、必死でもがいてきたけれど、そのまま流されるまま、泳ぎもせずただ浮いているだけでもいい。
そんなふうになったとき、生命の泉に浸っている自分に気がついたのでした。
まるでお釈迦様の手の平の上を飛んで飛んで、地の果てまで来たと思い込んで誇らしげに見たら、まだ手の平の上だったという孫悟空のようです。
激流、荒波をくぐり抜けた気でいましたが、ずっと穏やかな命の泉で、ちゃぷちゃぷと遊んでいただけでした。
そしてそれで良いのでした。
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