2015年1月31日土曜日

追記 ランナーとチェイサー 私の旅

なぜ、ランナーは逃げたのか?

前々記事を書いて、なぜ、重装備を背負った兵士に自分をなぞらえたのか、考えていました。

小さい頃からどうしたらみんなと同じになれるかわからず、強すぎる感受性に普通の暮らしができずにいる自分をなんとか普通にしなくてはといつもビクついていました。

ツインに抱きしめられて、それまで生きていくために、身につけてきた鎧や武器が、彼を傷つけてしまうのではないかと思っていたのかもしれません。



質問受け付けます

もし、ツインソウルのランナーの気持ち、というのが知りたいという方がいらしたら、ご質問受け付けます。

コメント欄に書いていただけたら、すぐには公開されない設定になっているので、こちらで見せてもらい、答えとあわせて公開させていただきます。

わたしの答えられる範囲で、になるので、わからないことは正直にそのように書かせていただきますね。




2015年1月30日金曜日

ランナーとチェイサー 私の旅

ツインソウルの彼に会って、ランナーとなって逃げた私。

男女間では、男性がランナーになることが多いようですが、わたしは魂には性別はない、と思っていて、男性だった前世もとても強く影響されているので、女性がランナーでもありえると思っています。

このランナーとチェイサーの関係で、面白いイメージが浮かんできました。
わたしはこういうかんじで、魂の旅をしてきました。


軍隊の訓練の障害物競争をイメージしてみてください。
装備を体にくくりつけて、高い壁を登ったり、泥水をほふく前進するようなあれです。

グラウンドのような開けた場所ではなく、山道を切り開いて作った、アスレチックの遊び場のようなものがよりイメージに近いです。

わかりやすくするために、グラウンドでのトラック競技のように第一コーナーから第四コーナーと書いてみました。


 ================

ランナーは出会った場所から、逃げ出して、走って走って第一コーナーを回って、互いの姿が見えなくなります。

重い装備は肩に食い込むし、目の前にはさまざまな障害物が現れます。

壁にぶち当たったり
泥水を這って進まねばならず、たっぷりとその水を飲まされたり
鉄条網をくぐりぬけて満身創痍になったりもします。

そこで、自分を癒してくれる人々にであったり
壁の越え方を学んだり、
同じように苦しむ人々に出会います。

励ましあって、互いの荷物を少しずつほどいてこの武器は置いていっても大丈夫だと、信じられるようになります。

少しずつ、身軽になっていきます。
障害物も同じようなものが現れても越えられるようになります。

第3コーナーをすぎたあたりで、もう大丈夫だ、
がんばってきたね!と仲間と笑いあえるようになります。

もちろん、ランナーは、それが第3コーナーとは知りません。
ただ、無我夢中で進んでいただけです。

そして、第4コーナーを回ると狭かったコースが急に広がり、
暗い森から、明るい草原に景色がかわります。

そこにチェイサーである、彼が待っていてくれました。

おかえり、と両手を広げて。

ふわふわの天使の羽のようなタオルで、全身を包むように抱きしめてくれました。


そこでランナーは言うのです。

ごめん、ごめんね一人にして。
長い間待たせて。

地の果てまで逃げたつもりが、ぐるっと一周してきただけだったのね。

また帰ってきた、あなたの胸に。

ここが魂の居場所だから。

================

ツインソウルの愛は、絶対なのです。
だから、ランナーは必ず戻ってきます。

わたしのブログを読んで、「15年なんてふざけるな!」と思われる方もいらっしゃると思うのですが、それでも、わたしは背負っていたものが多すぎたのか、必要な時間だったと思えるのです。

少しでも早ければ、さらなるカルマを生んで、また逃げて、また傷つけるだけだったでしょう。
今は、とても軽やかになって、天女のようになって彼の前に立てています。

準備ができるまで。
お待たせしてしまったけれど、その分、愛し続ける自信があるから。



2015年1月28日水曜日

絶対と相対

絶対評価と相対評価、というのがわたしの子どものころに議論されていた覚えがあります。


相対評価、とは周りの中で自分がどれくらいの順位にいるか

絶対評価、とは自分の学びの深さを評価する、というようなかんじだったように思いますが、

仏教の教えでも、相対の世界(分別、明暗、正邪、善悪)は迷妄の世界で、絶対の境地に至ることを悟りとしている(と私は理解しています)


なぜこんなことを今日考えていたかというと、今回ツインの彼に会った時に、やけに「もうおじさんになってしまったし」「君の気持ちも変わっていくよ、これから自分も歳をとっていくんだし」と繰り返す彼のことばが気になっていたからでした。


自分も含め、恋愛対象となるのは、若い、美しい、収入が高い(安定している)、賢い、などなど、「良い」とされている価値を相対的に多く持つ人が恋愛市場では勝ち組、というのが「普通」のことですが、

そんなものは吹っ飛ばして、いきなり「絶対」の愛に至るのがツインへの愛で、そこに障害があろうがなかろうが、いくつだろうが、どんな人間であろうが、そんなことは愛の本質とはまったく関係がないのだなあと結論がつきました。



ツインへの愛って、悟りとか、絶対の境地とかそういうものにも通じるんですね!

いきなり、どこでもドアが開いて、地上の天国に通じてしまうような、そういうものをもたらしてくれる愛なんだなと、

ツインの言葉がひっかかっていたおかげで、ひとつクリアになりました。



2015年1月27日火曜日

絶望のその先に


どうして、昨年(2014年)5月末に、何もかもが終わり、解放されたのだろう?

あのとき、わたしは絶望しきっていました。

努力と理性で生きようとして、頑張って頑張って生きてきて、うまくいかなくて、それでも頑張って。

それは、妊娠して出産したい、いい子でいれば愛される日がくるという「希望」を持ち続けた日が、暗転して、もう無理なのだ、とはっきりと諦めた日でもありました。

諦め、という言葉は「明らかに見る」とよく言われますが、

わたしはそれまで、明らかに見ようとしていませんでした。

砂漠にチューリップの苗を植えたところで、育つわけがないのです。それを努力でなんとかすればなんとかなる!と力を入れて主張していたのでした。

絶望して、ようやくクリアな目で、物事を見ることができました。

そして、肩の力が抜けました。

生死も、出会いも、「私」(エゴの部分)は介入できない。

流されるのが嫌で、必死でもがいてきたけれど、そのまま流されるまま、泳ぎもせずただ浮いているだけでもいい。

そんなふうになったとき、生命の泉に浸っている自分に気がついたのでした。

まるでお釈迦様の手の平の上を飛んで飛んで、地の果てまで来たと思い込んで誇らしげに見たら、まだ手の平の上だったという孫悟空のようです。

激流、荒波をくぐり抜けた気でいましたが、ずっと穏やかな命の泉で、ちゃぷちゃぷと遊んでいただけでした。

そしてそれで良いのでした。






女神性を取り戻す

旅の途中、美しい富士山が見えました。

「あ、富士山。そういえば、富士山は木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)だった」と思った瞬間、頭にビリビリっと小さな雷のようなものが落ちてきて、ひゃあ!と思わず声をあげそうになるわたしの身体を貫いていきました。

こういう神様からの「ハロー」をいただくことがツインとの再会で増えてきました。

ツインに出会って、チャクラが全開になってしまったような感覚があり、そうなると「動く神社」「動くパワースポット」と自分がなってしまっているかんじです。

見えない世界からも、「ここ入って。浄化してって」と頼まれるような感覚があったり、また、会う人会う人が、話しているうちに、素晴らしい笑顔になっていくというのを目の当たりにして、「私に出会うと、人が開運する」という確信が生まれました。

これは、威張ることでもなく、かといって謙遜することでもなく、あるいは「これは神から頂いた使命です!」と肩に力を入れることでもないような気がしていて、うまくまだ受け止めきれないのですが、

淡々と、おもしろがって生きていくことが、もしかしたら宇宙の大きな物語の一部になっているということなのかもしれないと思ったりしています。



抑圧された女性性と、よく言われますが、陰が陽になるような無理な平等ではなく、陰は陰として、バランスをとっていくことが女性の本来の力を取り戻して、女神として輝くということなのかもしれないと思うのです。

わたしは、ツインの姿が古事記に出てくるような大国主命などの男神に見えて仕方ないのです。

そうなれば相方であるわたしも女神としてきっと美しく輝いているのが本性なのでしょう。


今はたくさんの方が、ツインに出会い、目覚めていく、ワクワクするような夜明けの時。
この地上に、美しい愛の花がたくさん咲きつつあるのを感じます。


今日も愛と平安と勇気が、ツインに出会ったすべての人とともにありますように。





2015年1月26日月曜日

旅から戻って

旅から戻ってきました。

3ヶ月ぶりにツインに会ってきました。

多忙を極める方なのでほんの2時間一緒に食事をして、
楽しい時間はあっという間に過ぎて行きました。

どんなに忙しくても、「忙しい」とは言わないのが彼の美学で
短くても必ず時間を作ってくれることに、感謝しています。



ツインと、食事をすると、ほんとうに何を食べても美味しい。

わたしは神経質なところがあって、食事をしながら話しをして
という場面では、家族であっても、親しい友人であっても
気遣いしながら、自分のマナーも気をつけながら、と、
心底、美味しいと思う余裕を持てないのですが、

ツインとの食事は、体の芯からくつろいでしまって、おしゃべりも楽しく、
何を食べても美味しい。

これってどういうことなのかなあと帰り道、考えていました。



ふと思ったのが、

わたしたちは、日常の生活で本来なら100感じるところを
10くらいに抑えて生きているのではないかと。

そうでなければ、満員電車に乗ったり、クラクションを鳴らす車で
あふれる交差点を渡ったり、残酷な事件のニュースに触れながら
生きていくことがつらすぎるから。

それが、ツインに出会うと、100の自分になってしまう。
まるで、10×10=100 みたいに。

だから、味もぐっとよくわかるし、頭の回転もよくなるというか
次に話すことが自然に見えてくる。

エスパーとかスーパーサイヤ人(?)になるような感覚があるのは、
本当の人間の能力がフル稼働するからかもしれません。


幸せなひとときの後は、もちろん、
もっともっとずっと一緒にいたいのにと
ひとり涙にくれましたが、、、

そしてランナー気質としては、
これがただの恋で、迷っているだけで
もう終わりと言われたらいいのに、と
また思う。(こりてない!)

でも、
「またね。連絡待ってます」という彼の一言は最後にわたしを
やさしく、くくりつけます。

ありがとう。

今日も、出会った日と同じように愛しています。



2015年1月24日土曜日

旅をしています

他の理由も合わせて、ですが、

ツインに会いに来ました。


彼の住む街に。


もー、ドキドキ…


2015年1月21日水曜日

感情とセルフネグレクト その2

感情とセルフネグレクトのことを考えた時、結婚生活という二人きりで逃げ場のないところでどんどん圧が高まって、自殺しか逃げる方法がない、と考えるほど追い詰められたわけですが、

思い返せば、それはものごころついたときからずっと、自分の感情をネグレクトしてきた最終結果とも思えます。

「いい子でいなさい」

そうでないと、両親に迷惑がかかる。家にも迷惑がかかる。

きょうだい二人はのびのびと育っていましたが、長子のわたしは、「きちんと」「ちゃんと」していなくてはいけないというプレッシャーに日々さらされていたのかもしれません。


それが無意識に植え込まれて、本当はもうすでにそんな目で世間は私を見ていないし、誰も気にしていないかもしれないのに、幼い頃にかけられた呪いのように、「自分がこうしたい」と主張することがうまくできませんでした。

きちんとした理由があって「将来こういう仕事がしたいから、大学は東京に行きたい」といったようなことは、自分を押し通すことができますが、そうではなくて、感情で「嫌だから嫌」といったことはゆるされない、そう思っていました。



本当は、ツインと離れたくなかった。

でも貫けば、いろんな人を傷つけてしまう。

「理由はないけど、こうしたい」、と言えなかった。それはわがままだから。



離れてから、「こうすべき」人生を歩んできたのですが、その間は灰色でした。

あれほど、愛を失うのが怖くて、失ったら生きていけないと思って逃げたのに、離れている間、わたしは「生きている」とは言えない時間を過ごしてきました。

ツインと再会した時、世界に陽が差して色が戻りました。



魂が、こうしたいと言っていた。それを受け入れた。


そして今。

ああ、生きている。




若さを保つ

わたしの寿命は神様と、ツインの彼におまかせすることにして、
わたしの今のテーマはいかに若さを保ったまま生きていくかということ。

ツインとの再会の前のことになります。

自分で離れることを決めた時からもう一生自分からは彼に会わないと決意していたのですが、心のどこかで、「いつかどこかですれ違ったりして、会う日が来るかもしれない。そのときに年をとったなあと絶対に思われたくない!」という気持ちがあったのも事実。

2年ほど前になりますが、若さを保つということを検索して、美輪明宏さんも実践されているというチベット体操に行き着きました。

まったく不純な(?)若くありたいという女心からでしたが、この体操はチャクラを整えてくれるらしいですね。それまで弱かったルートチャクラがとてもしっかりとしてきたような気がして、日常生活の疲れがほとんどなくなりました。


もうひとつ、信頼する整体の先生に勧められて、白いでんぷん(白米、白いパン、おうどんなど)を摂取するのを控えています。これは、食べるとぐーっと眠くなるような疲れを感じることがなくなったこと、こわばりのような肩や腰の凝りがなくなるというオマケまでついてきました。

そして、肌はツルツル、スタイルも人生で一番良かった頃(28歳の頃)に戻って、維持しています。

昔から老け顔だったので20歳の頃には30歳に間違われるほどの落ち着きぶりでしたが、最近は年齢を言うと驚かれるほどになりました。ちょっと嬉しい。

2015年1月20日火曜日

神様におまかせ


昨日、ちょっと落ち着いている自分を発見しました。

それまでは、夫への怒り、恨みがものすごくて、一緒の空間にいるのもうとましくて、家を出ることだけを考えていました。


神様へのお願いは一つ

「円満に離婚できますように」でした。

誰も傷つきませんように、と祈っていました。

ですが、昨日、気づきましたが、それも「欲」「期待」のエゴでした。



つまりは、自分が非難されたくない(まだ「いい子でいたい」らしい!)ので、大団円でおさまりますようにと祈っていたのです。(できたら財産分与もらえますように、と)


笑ってしまいました。

そして肩の力が抜けました。

夫へは普通の人に対するように、イライラせずに対応することができました。

この現在の関係性は、神様に一任しようと思います。無理やりなんとかして新たなカルマを生みたくないですし(笑)



わたしはツインを愛してさえいればいい。

愛していることだけが動かしようのない真実。

ツインを愛することが、私たちを生んだ宇宙のすべてを愛すること。

宇宙は大きすぎて、すべてをイメージして愛するにはこの小さな体ではちょっと無理なので、宇宙の雛形のような小さいけれど無限の愛を、ツインと経験させてもらっているのかもしれません。

感情とセルフネグレクト

ツインソウルの彼との再会から、一ヶ月は再び触れることのできた愛に夢見心地、次の2ケ月目、3ヶ月目は、最後の毒出し(最後だといいけど、、)というのか、夫への恨みつらみが噴き出してきて、我ながら驚きました。

結婚生活において、痛みとか、悲しみとか、本当はものすごく感じていたのに、わたしはそれを「いい妻でありたい」「いい夫婦でありたい」という「欲」で見て見ぬ振りをしていたのでした。

表現されることのない、痛みや悲しみは、消えることなく圧迫されて、それを抑えるために無駄な力をかけていたのでしょうか。怒りが噴出してから、(ノートに悪口を書きまくりました)すっと身体が軽くなりました。



このように感情に蓋をしたことは、自分へのネグレクトと同じではないでしょうか。

セルフネグレクト、という言葉は、自分を、虐待に当たるネグレクト状態で扱い、不十分な食生活、不衛生な住環境、医療を受けないということを示すとのことですが、わたしは、自分の感情に対して、セルフネグレクトしていた気がします。



わたしは、「自分を愛するように他人を愛しましょう」という言葉がどうしても理解できませんでした。

自分を愛する、ということがわかりませんでした。

だから、同じように他人を愛するということは、もっとわからない。

「人は誰だって、自分が一番かわいいものよね」という言葉も、まったくわかりませんでした。

自分がそんなに大切な存在とはどうしても思えず、自分が大嫌いで、矯正すべき存在で、ダメなところばかり、何一つまともにできない、グズで、ブスで、という罵倒の言葉は常に自分の頭の中に響いていました。

思い返しても、母は厳し目のしつけはしていましたが、手を上げられるようなことはないし、怒られているのはむしろきょうだいでした。父には甘やかされていました。きょうだいへの叱る言葉も、その家にいるきょうだいは皆受け止めてしまうという説があるそうなので、その影響も多少あるかもしれませんが、、、いまだに原因はよくわかりません。

2014年の5月末に、「いい子でいなくては愛されない」という呪縛がとけ、自分の感情をようやくそのままで抱きとめられるようになりました。辛いと思ったらそのままを深く感じる。「つらいんだね」とその感情と一緒にいる。何かに怒りを感じたら「怒っているんだね」とそのまま怒りを感じる。


そうやって自分の心に蓋をしなくてもよくなった時、彼から流れ込む愛は、行き先を見つけ、私の中に流れ込んできました。

それは二つの干潟が、小さな水門で区切られていたのが、その水門が開けられたような感覚で、暖かい海水が私に流れ込み、わたしの凍っていた水を溶かして、また彼に還流するような感覚でした。








2015年1月17日土曜日

「ツインソウル」 エンリケ バリオス

「ツインソウル」と題が打たれた本は、飯田史彦さんの著書を読んだのは、運命の彼との再会を果たして、あまりの激情にパニックになって、ネットを検索しまくって「ツインソウル」という言葉を知った1ヶ月後のこと。

ボロ雑巾のように感情の奔流にくたくたになった私は、実家に里帰りして、以前使っていた部屋に入り、何気なく本棚を開けたところ、飯田先生の「ツインソウル」が置いてあり、文字通り腰を抜かすほどびっくりしたのでした。

自分で買ったはずですが、まったく覚えがありませんでした。
ただ、とても勉強にはなったのですが、実際にツインソウルに出会われた方の切実な声の方が自分には共感できるところも多く、それからは、ネットで体験者さんの話を読んでいました。

が、どのサイトでもこの本の紹介には出会っていませんでした。(見落としていただけもしれません。あるいは時期が来ていなかったのかも)




「ツインソウル」エンリケ バリオス


アミ 小さな宇宙人が世界的ベストセラーの作家さんです。

「アミ」シリーズは題名だけは知っていましたが、今回は、何気なくamazonで「ツインソウル」と検索したところヒットしたので買ってみました。



結果、驚愕、衝撃、です。



これはすべてのツインソウルに出会って、激情に翻弄されている方々(仲間意識すら持っています)に読んでもらいたい。

ツインソウルに出会ったら必読!

課題図書!

ここで、今この文章に出会っている方には、「その時期」が来ているのだと思います。

ぜひお読みになっていただきたいです。





2015年1月16日金曜日

整体

昨日はクラッシュにたとえてみましたが、今日は「整体」


ツインソウルに出会うということは霊的な「整体」のようなものとも言えるかもしれません。



わたしは、腰を傷めがちで、気づくと体に緊張を溜め込んでしまいます。

ゆがんだ体のままでしばらく生活して、そのうち背中や腰が痛くてたまらなくなって、二度ほど思いっきりボキッという音のする整体に駆け込んだことがあります。


「はい、力抜いて〜 ヤッ!」と、体をひねられて、ボキッ!(このボキッは痛くはない。音がけっこう怖いので、今はもう通っていませんが)

鏡を見て、「まっすぐになりましたよ〜」と言われて、たしかに治っている。楽になった!



でも、次の日、身体中が痛いのです。

それは、整体前にゆがんでいたところが、元に戻ったことで違う場所が伸びていたところがつっぱったように感じたり、逆にゆるんだ場所が痛みを持ったりするらしいのです。

正しい体の位置になったのに、「今日は違うところが痛いから間違った処置をされたんじゃないか」と不安になったりしました。



これをツインソウルとの出会いに当てはめると、、、


心と体と魂が、少しずつヘンなクセをためて行って、ゆがんだ身体のままでもなんとかそれなりに、(不快感を見て見ぬ振りしながら)生活していたころに、ツインと出会って、「ボキボキっ!」と体を突然整えられたような衝撃がやってくる。

ツインソウルにであった後の幸せ感と、その後やってくる痛みと当てはめると、なんだか納得。

ツインに出会うと、元どおりの本当の自分に還っていく、でもその本当の自分にはまだ馴染みがないので、痛い、その痛みが間違っているように思えるのかもしれません。






2015年1月15日木曜日

クラッシュ

英語で、一目惚れのことをクラッシュ(crush)と言います。

カタカナでクラッシュというのは、ややこしいですが crash のほう。

こちらは衝突事故などに使うので、自動車のレースなどでクラッシュしたというのはcrashです。

crush は力を入れて形が変わるほど圧をかける、といった意味で、ビールの空き缶を潰すとか、石を砕いて粉にするとかに使われます。

ツインとの出会いは、一目惚れ(love at first sight ともいう)なんて生易しいものではなく文字通りクラッシュでした。

どちらかというと、衝突事故のような衝撃でしたが、
じっくり考えてみると、圧がかかって、自分だと思っていた存在が形が変わる、というのは言い得て妙かも。

変体するというか、自分だと思っていた存在への認識が変わる、自分にはこんなに深い感情や、激情や、天にも昇る気持ちを味わえるのかという驚きも大きいものでした。


その分、絶望すると、地の底まで叩きつけられますけれど。

どちらにしても、自分だと思っていた現実社会の存在が大きく拡大するので、小市民として生きていきたいと思っていた自分としては、まあ大変です。









2015年1月14日水曜日

魂のまんまで生きる


ツインソウルに出会うと、社会的なきまりとか、理性とか、考えとかそういうものがすべて吹っ飛ばされます。

そういうのを忘れて、魂に戻ってしまうのです。

長い長い旅をしてきている私たちの魂、それが今この世のこの時に出会った、という感慨が生まれてきました。

きょうだいの何番目に生まれたか、親のしつけ、学校の教育、社会のおきて、そういうもので作り上げてきたと思ってきた「自分」が、それは実は現世を生きるための洋服(か防護服、あるいは鎧の人もいるかも)で、本当の自分はもっともっとピュアで力強い宇宙のエネルギーをそのまま体現できるような存在だと気付いてしまいます。

それって、さなぎが蝶や、蝉になるようなもので、同じものだけど、変体するというか、変わってしまうのです。

ツインソウルに出会うのは、天からのcalling(天啓)のようなものかもしれません。

「目を覚まして、自分の人生を生きなさい!」という。





ツインソウルと別離のあいだ その3

何度も頭をよぎるのが、

「15年も離れていたなんて、信じられない」

「どうして離れていられたんだろう?」

「あのとき思いを貫いていれば、今頃もしかしたら一緒にいられたかもしれないのに」

後悔に似た思いでした。


ですが、よくよく思い返せば、わたしはツインに会いたいということを除けば、何の望みもないくらいすべて満ち足りた人生を送ってきました。

大好きな父の最期の日々をべったりと(介護をして)過ごせたし、普通の結婚もしてみたかったし、住んでみたいと思っていた土地にはすべて住みました(高校を出てからの引っ越しは7回)。自分の子供は持てなかったけど、かわいい甥や姪を思う存分かわいがれて、祖母の看病までさせてもらえました。

経験してみたかった贅沢も、ありがたいことに経験させてもらえて、(家とか車とか旅行とか)この世に思い残すことは何もない、という状態になったのが2014年の5月末でした。

ある意味では、自分を押し殺して我慢だらけだった結婚生活も、自分一人で生きていたらかなわないほどの物質的な豊かさを経験させてもらえたという点では夫に感謝しています。

美輪明宏さんの本に書かれていたのですが、この世には正負の法則があると。
いいこともあれば悪いこともある。それが今までの人生でした。

「いい子」でいたおかげで、家族も円満だし、贅沢もできた。多少自分を抑えるくらいは仕方ない、と。

そういうのが現世の掟、ならばそれをやり尽くした15年だったとも言えます。



ツインの彼と、ずっと一緒にいればよかったと嘆くわたしに親友が言ってくれた一言。「ずっと一緒だったら、経験できなかったことをするために離れていたんだよ!」

確かに、彼と一緒なら自分の望みなど忘れて彼中心の生活になっていたのは間違いなく、それをしていたらもしかしたら、15年経ったいまごろ、経験してみたかったことを思い出して後悔していたかもしれません。

そして、まだこれははっきりと聞いていませんが、彼もこの別離の間に現世でしておくべきことを経験して、カルマを返して、成長してきた気がするのです。それは、再会した時にあまりにも素敵な大人の男性に成長していた姿を見て強く思いました。







ちょっとひとやすみ


ツインソウルに出会うと、経験したことのない、感情の嵐に疲れ果ててしまうときがあります。

普通の恋とは違って、自分の命の源を揺さぶるような出会いなので、他のことでは経験できない深いところまであらわになってしまうからでしょうか。

現実的な疲れもあいまって、ここ2、3日元気がでず、気持ちとしては引きこもり。

そんなときには、「ヨガ ニードラ」で心を休ませます。

CDで誘導してもらう、横になっているだけのヨガです。

とっても心が穏やかになります。

神経が立って、ぐっすりと眠れない時でも、一度のヨガ ニードラで数時間分の睡眠と同じだけのリラックス効果があるとか。




2015年1月13日火曜日

無条件の愛


ツインと再会した日のこと。


抱きしめられ、寄せ合う頬に、突然、父を感じました。

繋いだ手を、持ち上げてそっとわたしの指先にキスをしてくれたとき、祖父を感じました。

どちらももうこの世にはいなくて、私が生まれた時から無条件の愛を注いでくれた二人でした。



わたしは本当に愛されて育ったことを家族に感謝するしかないのですが、なかでも祖父と父の愛はものすごく大きくて無条件で、その愛がこの世で感じられなくなった時、わたしはバランスを、崩しました。(そして、焦って結婚してしまいました)

母や妹ももちろん愛してくれていますが、女同士というのは肉親でもなかなか難しいもので、常にライバル心と隣り合わせの愛情です。


今まで触れ合ったことのある男性に、そういったものを感じることはありませんでした。わたしは女という記号のようなもので、見た目や年齢で選別された「落とす」ための対象でしかなく、肉欲を満たすためのキスしか受けたことはありませんでした。



ツインの彼から感じた、無条件の愛。

それがわたしに流れ込んできて、わたしはもう一度生きていく力を取り戻しました。

以前の私なら、こんなとんでもないことをしている娘で親に申し訳ない、と罪悪感でいっぱいになっていたと思うのですが、そんなことは少しも感じず、「ああ、やっぱりこの人なんだ」と確信したのでした。



空を見上げて


ツインの彼と、繋がっていることを確信できて、魂は死なないし永遠だし、久遠の輝きを感じられて、至福に浸れる日もあれば、

まだ未熟者だからか、切なくて、悲しくて、どうしようもなく会いたくて、発狂しそうなときもあります。

そういうときは空を見上げます。

空を見上げて、晴れている日はそのまま、曇っている日は晴れをイメージして、しばらくすると気持ちがすうっと落ち着いてきます。

天と地とつながっていることを感じられ、これでいい。わたしの道はこれでいい。と思えるようになります。

空を見上げるって、単純ですが、じつはれっきとしたチベットの瞑想法なのです。チベットの秘法の本を読んでから「空(くう)」を意識するようになって、空を見つめる瞑想が心を自由にしてくれる気がしました。

簡単で、姿勢も良くなって、苦悩する悪い癖から自分をほどいてあげられるようになりました。

悩んだって仕方ない。

今、このままの自分で大好き。






2015年1月11日日曜日

「外科室」泉鏡花

文芸作品から映画化された、「外科室」

一目交わし合っただけで、深く愛し合う男女と悲劇の結末。

小説は本当に短くて、なんのこっちゃ?という感じですが、坂東玉三郎監督の映画では、二人の気持ちが切ないほどよくわかります。

目を交わしただけで、命をかけられるほどの想いというのがあることを、ツインに出会って初めて知りました。





別離が必要だったとするならば


昨日、つらつらと別離の期間(15年)が必要だったとするならば、、、と考えていました。




その間わたしは何をしてきただろう?


とても生きづらくて、もがき続けていました。

仕事をして、親の介護をして、看取って、「普通の」結婚をして。

つらくて孤独で、たまらなくて、この世に居場所が欲しくて、スピリチュアル系の本もたくさん読みました。

波動をあげれば、少しでも楽になるのかと思い、

いい言葉を使う、

悪口や愚痴を言わない

人には親切にして、笑顔で接する

お掃除をきちんとする

ジャンクフードは食べずに、健康な食事をとる

瞑想する

ヨガをする

体を適度に動かす



学び続け、実践し続けの15年でした。

いつの間にやら、ほんの一滴ずつでも宇宙の純粋なお水のようなものがたまっていったのかもしれません。

あるとき、わたしという器がいっぱいになって、溢れて、もうこの体でこの世にいてもいなくてもいいというところまで来た時、自分がほんとうに満たされた時、彼はいきなりもう一度、目の前に現れてくれました。



2015年1月9日金曜日

言葉を尽くす


今日、ツインソウルとこれからどう接していきたいかを考えていて、ふと思ったことがあります。

それは「言葉を尽くしたい」ということ。

以心伝心という言葉があって、全部を言わなくてもいいという文化に育っていても、わたしはストレートすぎるくらい言葉を尽くしたいと思っています。自分が人から与えられたもので、印象に残っているのは、やはり言葉で、言葉で人はつながり合うのだなあと最近強く思います。



何も言わずに、15年前にツインの前から消えた私でしたが、再会が叶うとなったときに心に決めたのは、「目を見て、大好きって言おう」ということでした。

「もう一度会えたら、出会った瞬間から大好きって言おう」と。

それまでの恋愛(ごっこ)では、駆け引きをしたりして、焦らして、相手に言わせて主導権を握ってというどこかから仕入れたマニュアルで、遊びを楽しんでいましたが、そんな小細工は必要ない。

まっすぐ伝えたい。

そして、伝えた時、彼はほんとうにびっくりしていました。そんなふうにまっすぐ言われるとは思っていなかったのか、衝撃でちょっとのけぞっていました。

彼はものすごく日本男児らしいというか明治生まれか?というくらい固いタイプなのでもちろん返事は期待していませんでした。

でも、その後の彼の笑顔は、目尻から溶けてしまいそうな、ほとけさまのような顔になってしまって、どんなに嬉しいか伝わってきました。

そのあとのメールのやり取りでは、彼もとてもまっすぐメッセージをくれるようになりましたし、わたしもさらに言葉を尽くして、あなたがどんなにわたしにとって素晴らしい存在かということを、(押し付けがましくない程度に)伝えました。



ちょっと勇気が必要でしたが、一歩踏み出してみてよかった。

ちゃんと伝えられてよかったと思ってます。



自分を愛するということ

ツインは自分自身でもあるので、自分を愛せないうちは、とてもつらくて対峙できません。

自分が愛せないと思っている部分(狭量さ、非寛容、傲慢)をこれでもか!と見せてくれます。

出会いの喜びが倍な分、その見たくないものを突きつけられる濃度も倍で、苦しくて逃げたくなります。(それもランナーになった理由かも?)

ありのままの自分を愛し、許すということ。



前世での数々の悪行を思い出しました。

わたしは、太古の昔、軍の幹部として、何千人という敵と仲間を殺していました。丘の上に立ち、草原で泥と血の匂いが充満する戦場に自分が立っているのが見えました。

そのとき、自分が殺した人々の気持ちを知るために、数知れない回数の転生をした気がします。何度も殺される側にまわり、戦いに巻き込まれるということを経験してきた気がします。

少し前に、南アジアの国で、何十人といった子どもたちが銃撃された事件のニュースを見て、わたしは涙が止まりませんでした。子どもたちのために祈り、そして殺した男たちのために祈りました。

殺したほうは、一生、恐怖に見開かれた子どもたちの目と叫び声から解放されることはありません。悪夢にうなされ、自分の身を滅ぼしたとしてもなお、罪の意識は消えることはなく、ずっと自分自身を苛み続けるのです。


そうして、すべての転生を終え、カルマが終わった時(罪と罰ではなく、自分がしたことをされる側に回るという経験を積み、そちらがわの視点を知ることがカルマだとわたしは思っています)、自分自身を大量殺人者である自分を許し、許されたという実感がわいた時、他の誰も批判したり憎んだりできなくなっている自分に出会いました。

出会う人の誰ひとりとして、軽んじることはできないし、上下もない。

ただ旅をしている魂と出会っているという感覚が、人に出会うと思えるようになりました。

すべての人を許し、愛する。
それが自分自身を許し、愛するということと同じ。

それを知って、ようやくホッとして、すべての鎧をはずして、このままでいいんだ、ありのままの自分でほんとうにいいのだと思った時、いきなり幕が開いてそこに彼が待っていました。










2015年1月7日水曜日

自分の生存確認


自分は自分の姿を直接見ることができない

鏡に映った自分は、ほんのいっとき、化粧直しや、身支度のチェックでおすまし顏をしている

自分がどういう表情をしているか、
どんな人間かは
周りの人間の、表情と態度でわかる

笑顔なのか
くつろいでいるのか
緊張しているのか
冷たいのか

人に見つめられて、自分がここにいることを確認する


10年前、父が亡くなってから、わたしは生まれてからずっと私を見つめていた瞳を失った。

それは30年以上、生まれた時からずっとそこにある瞳で、子煩悩な父はこどもたちがかわいくて仕方なく、どんなに生意気なことを言っても目尻が下がってしまうという溺愛ぶりだった。

わたしたちきょうだいは安心して、好き勝手なことをして、世界中を旅して、土産話をした。それだけで父は喜んだ。

突然その瞳を失って、わたしは自分がどこにいるかわからなくなった。誰も父のように、じっとわたしを見ない。そしてわたしがここにいることを確認することができなくなった。

自分が世界のどこにいるか、ぐらぐらとして浮き上がってしまったように感じた。


ツインと出会って、見つめ合っていると、今ここに自分が生きているのがわかる。

彼の深い瞳の中に、現世のすがたの自分、だけではなくて長い長い旅をしてきた魂の来歴のすべてが見える気がする。

彼に手を握られると、ふわふわと浮き上がってしまいそうな自分が、しっかりと地上に足をつけて歩くことができる気がする。

彼の心臓の鼓動で、わたしの肉体が熱を持っているのがわかる。

自分が生きているのがわかる。






「翼」白石一文


昨日ブログをアップして、「腹をくくった」状態になった私。
新年の抱負を書き出すという小学生の頃を思い出しますが、こうして文字にすると頭の中とか、誰にも見せないノートに書くのとは違った決意表明ができるようで、良いですね。


午後、出かけてからポストを見ると注文しておいた本が届いていました。


白石一文 「翼」


とあるブログでおすすめされていたので、購入してみました。

文庫本なので半身浴しながら読み出して、何度も腰を抜かしそうになりながら読了。


感想は、驚愕!

主人公の二人、リエと岳志、どっちもわたしのことだ!と驚愕しつづけの2時間でした。

この本は、ツインに出会った人は、絶対わかるけど、出会う前なら荒唐無稽に感じられるでしょうね。。。

事実、amazon の書評でも、「泣けなかった」とか「わからない」という感想が多いのもうなずけます。







2015年1月6日火曜日

生命の泉



ツインソウルとの再会、彼と生きることを決意すること。(世間的なかたちはどうであれ)

それは、怖くて仕方なかったけれど、その怖さ、というのはいい子の自分を捨てる事、今までささやかに築き上げてきたすべてを捨てることだったからです。

でも、裸で生まれてきたのだから、もう一度裸になったって、なんとかなるでしょ!
腹をくくってみようと思います。


どのみち、今の人生のままならば、あと2年半の命です。

これは荒唐無稽に聞こえるでしょうが、(ま、このブログのすべてが、わからない方には荒唐無稽でしょうが)昨年6月にすべての行が終わったという感覚があった後、「寿命を選んでもいいよ。3年か、40年」と聞こえました。

今のままの暮らしなら、親や先祖に与えられた愛のストックがあと3年で切れて、私の命は絶対に治療できない癌か何かで尽きるという確信があります。

もし彼と生きることを選択するなら、あと40年の命。

彼と一緒にいると、生命の泉に二人で浸かり、互いにその暖かくも澄み切った水を掛け合っているような、そんなヴィジョンが見えます。

生命力は尽きることなく、互いをめぐって、そしてまた互いに還る。

この肉体が使用期限を迎えるまで、共に生きていきたい。

生まれて初めて、「生きたい」と思ったのは、彼に再会してからです。

女に生まれてよかった、と思えたのも初めて。



ありがとう。わたしの大切なひと。

肉体を与えてくれたのは、大切な両親。

生命を与えてくれたのは、あなたです。








傲慢からの決別

この半年間、悩みに悩んでいました。

どうしても彼への情熱を抑えることができない。狂いそうな思慕の激情を、思い込みが激しいからだとか、ほとんど彼の日常を知らないのに、美化して偶像化しているんじゃないだろうか、と、何度もなんども自分を説得して、諦めようとしました。愛は続くのだろうか?本当の私の日常を知ったら、彼はわたしなんてどうでもよくなるんじゃないだろうか?とも思おうとしました。


でも無駄でした。

降伏します。

世間の形としてはどうであれ、わたしは彼と一緒に生きていきたい。

それが本当の、魂からの望みだと、受け入れました。

初めて会った、16年前から、(年が明けたので、17年前になったのか)わたしは理性で生きようとしました。

愛は、意志の力で育んでいくもの、とどこかで生齧りしたような知識で、他の誰かと恋や愛を経験しようとしました。

でも、無理でした。代わりの誰かなんていませんでした。


私の最大の傲慢は、自分の意思で「愛」を作り出せると思ったこと。



でもそれは、人の仕事ではありませんでした。

天とか、神とかの仕事。

わたしたちの仕事は、愛から生まれたことを思い出すために、いったん忘れて、そしてまた愛の只中に放り込まれるような経験をして、愛を思い出すこと。

この世には愛しかないと思い出すこと。

初めて会った時に雷のように降ってきた「彼がわたしの相方」という直観を、もっと信じればよかった。

世間的に許されないことだからと言い訳して、抵抗して、「自分がしたいこと」(仕事や、結婚や、出産すること)を優先して生きようとして、トライし尽くして、もう生きる理由さえなくなった。

傲慢な、自分一人で生きているような「私」とはお別れです。








2015年1月4日日曜日

委ねるということ


今、ずっと課題だった本(数年前は平易な日本語なのにまったく意味がわからなかった本)を読んでいて、ずっとわからなかったことが少しだけとっかかりが見えた気がしました。


それは「神に身を委ねる」ということ。


戦後の世代は特に、だと思うのですが、自立してものを考え、選び取り、人生を生きていかなければならない、という教育を受けていて、(特に私はなのかもしれませんが)「自分で」という意識がものすごく強く、逆に呪縛となっているところがありました。

人に頼れない
弱いところを見せられない
すべて自分で解決しようとする
学び続けている自分を誇りに思っている
自分の判断を正しいと信じる


ツインソウルに出会っていながら別れを選択するというのは今思えば、尋常ではない意志の力で自分の半身を切り裂くような真似で、切腹のようなものでした。

当時は、それが「偉い」という価値観で生きていたのだと思います。
だから、引き寄せの法則が、大好きでした。
自分の意思を羅針盤にして、人生を思うように生きて行く。
それが至上命題でした。

ですが、引き寄せの法則である程度ものが手に入ると「次のもの」を何かイメージしないと何も手に入らない、人生が停滞してしまいます。

だから、ひとつ手に入ったらもっともっと、と上に上にと目指さなければ生きがいを失ってしまう。そんなふうに自分を駆り立てて生きて、あるとき、疲れ果てた自分を見つけました。


もっと流れに身を任せて、自分の理想だけを胸に、行雲流水の人生も良いのではないかと思えるようになったのは、つい最近のことです。

魂というものが、神から生まれた証ならば、神がくださった彼との出会いというギフトをありがたく受け取って、いまこのときに、その歓喜も、今は一緒にいられないという切なさも、なにもかもの感情を深く味わうこと。

それが今を生きるということなのかもしれません。

どのみち、魂はひとつなのだから。



漫画も


文学や映画も、今になればツインソウルの物語とわかるものですが、漫画もありました。

手塚治虫の「火の鳥 復活編」のチヒロとレオナの関係もまさしくそんなかんじがします。

事故で、人間や世界が土くれのようにしか見えなくなったレオナと、ロボットなのに愛を感じてしまうチヒロ。

特にラストシーンは涙無くしては読めません。(思い出すだけで涙。。。)






2015年1月3日土曜日

文学 映画 

ツインソウルという言葉を知るずっと以前から好きでしかたなくて何度も読み返す本や、続編を心待ちにしていた映画があります。

本は夏目漱石の青春三部作

三四郎
それから




映画は、ジュリーデルピーとイーサンホークの

ビフォアサンライズ 恋人までの距離
ビフォアサンセット
ビフォアミッドナイト

なぜかこのふたつが大好きでした。

以前はまさかツインの彼との再会が叶うとは思いもよらなかったのですが、今のわたしたちは物語で言えば、どちらも二作目の「再会」の場面。これからどうなっていくのでしょうか、、、




あとは、文学作品では

ジェーンエア (シャーロットブロンテの長編小説)

この物語は、愛し合う二人に襲う試練と、テレパシーを感じさせるシーンが力強く描かれています。


映画では、

きみに読む物語 (2004年 アメリカ)

他のツインソウルの方のブログを見て、おすすめされており、「へえ、みてみたいな」と思って検索したら、ちょうど無料配信されていて(2014年12月のこと)シンクロというのでしょうか、見たいなと思ったら目の前で始まった、くらいのスムーズさで拝見しました。



これらの作品は、ツインソウルに出会ったらどうなってしまうか、どう行動するのが悔いがないのかということを教えてくれている気がします。