2015年10月31日土曜日

天に帰るときには

今日、ゆっくりとお風呂に入りながら、しみじみと、幸せだなあと思っていました。

ツインに出会ってからいろいろな過去世を思い出しました。

表面的には辛いことも、苦しいことも、穏やかで幸せなこともありました。

それでも、長い旅を通じて、わたしの出会いは愛に満ちていたと、つくづくと思いました。

天に帰るとき、きっと神様に「わたしの旅は愛に満ちていて、本当に幸せでした」と言うだろうなと。

光に満ちて、「神様、帰って来ました」という自分の姿が浮かびました。


そこで不意に降りてきた言葉。

「で、相方は?」

天の門の前で、「相方がいないじゃない。一緒じゃないと入れない」と門前払いをくらうヴィジョン。

ええ!?

自分一人で幸せで充実して、関わる人々にも愛を持って接すればいいのかと思っていた。

「相方とともに帰って来なさい。」

「ともに飛び出したのだから。」

ということは、やっぱり一緒になるということなのかな?

世間的なカップルとしてではなく、やはり相方とはきちんとコミュニケーションをとり、通じ合う心を確かめ合い、信頼に基づいた関係を築くということ。

はい。

それがわたしのこれからの課題のようです。


正直、メールの返信が遅いので、またまた「もう終わりってことかな」とランナー気質の終わらせたい思考がこのところチラチラと頭をよぎっていました。

まだ終わりません。わたしの旅は。







願望という形の不平不満

「もっとツインがメールや電話をしてくれたらいいのに」

「もっと会いたいと言ってくれたらいいのに」

それは、願望というかたちの、不平不満でした。

宇宙、神様は、様々なシンクロニシティでわたしが宇宙の流れに乗っていること、加護を受けていることを教えてくれている。

それなのに。

信じていないのは、自分自身。

ツインに愛されていることを信じきれない。

それは、わたしが神の愛を受けていることを信じきれていない証拠。

こうだったらいいのに。

もっとこうだったら、幸せになれるのに。

そうじゃない、今、あるだけでも十分すぎるほど有り余るほどの愛に包まれ、今、なにも変化しなくても幸せだと実感すること。



ツインがいなければ幸せになれない。
ツインがもっとこうしてくれたらもっと幸せなのに。
ツインと一緒になれたら幸せになれるのに。
ツインソウルと一緒になれる人もいるのに、なぜわたしはなれないの?


これは、うっかり願望だと思っていたのですが、実は不平不満だったのでした。

今、このままでも愛はわたしを流れ、わたしを生かし、輝き続けている。

このままで、本当に幸せなのだということをブレずにずっといられる状態になれたらいいな、と思いつつ。

ちょっとした気づきのメモでした。






常に愛を選ぶ

昨年7月、いろいろなものから解放されたと思った後の、忘れられない恋人との再会。

出会った瞬間から、お互い惹きあって、最初から愛に満ちていました。

でも、わたしは若くて既存の価値観でガチガチに凝り固まっていて、その愛をそのまま受け入れることができなかった。

不倫、いけないこと、誰かを傷つける、だから諦めなくてはという思考、それはすべて自分(と思い込んでいたエゴ)の存在を壊そうとする愛の力への抵抗でした。

わたしは、執着を手放すということがよくわかりませんでした。

ちょっとわかりかけてきたのは、今、この瞬間も彼とはつながっていること、神が作り、再会させてくれたということを信じて、プロセスへの執着を手放し、今この瞬間、彼とは別々の家に居るという事実を受け入れた上で、幸せを感じるということ。

共にいてもいなくても、愛は変わらない。

「なんとかしなくちゃ」と焦るのをやめて、静かに流れに身をまかせる。

この瞬間でも、わたしは完全に神とつながり、愛されている。

すべての宇宙の存在が、わたしという存在を祝福してくれている。

わたしもかけがえのない、宇宙の一部なのだと。

ツインソウルということばを知ったことで、あのわけのわからない激しい恋を理解し、受け入れる。

そして、本当はわたしたちはひとりひとりが神の愛し子で、愛と光に満ちた存在だと気づくことができた。


彼を愛しているということ、そしてそれを受け入れることが、わたしの本質の光へと導いた。


それは、自分の意見を言わないでいい子でいるということではなく、人を傷つける言動を(人も自分も)許容するということではもちろんなく、はっきりと意思表示をすることもとても大切。

2015年10月30日金曜日

living shrine

今日は、久しぶりに神社に参拝に行きました。

大好きな神社、清らかなエネルギーに満ちています。

本殿の前で頭を下げていると、瞑想のゾーンに入るような、ぐうっと光が体の奥底から輝き、外へと押し出るようなイメージがわきました。



ツインとの再会から特に気をつけるようになっているのですが、美しく装うことを心がけています。

美しさは光。

神様が作られた美しい体を大切に扱い、美しく保ちたい。

清潔感を持ち、身仕舞いを整え、話し方、振る舞いを美しくすること。

そうすることで、神聖な存在である自分が光を取り戻す。

わたしたちは誰もがずっと光り輝く存在なのですが、それを表現することで、妨害していたエゴや古い記憶のかけらが取り去られていく。

そしてひとりひとりが、「歩く神社」のような存在になります。

日本の神社は本当に美しく、清らかで、静謐です。

わたしもそういう存在でありつづけたい。


不変、永遠の愛をこの世で



ツインとは、会っていきなり、天上の恋と知った。

それは永遠、不変の愛。

だけれど、わたしたちの生きる現世は、移ろい、変化する。

ツインソウルが取り組むチャレンジは、この「絶対」と「相対」の世界のバランスをとることなのかもしれないとインスピレーションが降りてきました。

絶対の愛、を変化するこの世で、実現すること。

うつろいゆくもの、壊れやすい物質の世界で、永遠不変の愛を体現すること。

そこに、宇宙の流れ、神の意志といった聖なるものが望む、至高の愛が、生きとし生けるものすべてにそそがれ流れている、三次元の天国が現れるのではないかと。

実際のやりとりは、もどかしいし、思う通りではないから切なくなったり悲しくなったりするけれど、それでも感情の表層は波立っても、深い底を流れる水は穏やかなようにツインへの愛は一切揺るがない。

ずっと、なぜ神はこんなに苦しくつらい世界というものを作ったのだろうかと思っていました。

でもつらくて、チャレンジしがいがあるからこそ、わたしたちは光の玉から飛び出し、二つに分かれた。

あの愛を、現実でも味わうために。

シンクロニシティ、が普通に起こっている世の中になっていくために。

鬼か夜叉か

ここ数日、恐ろしいヴィジョンが何度も現れてきて、そのたびに凍りついていました。

それは、ツインを独占したいあまり、彼の家族にひどいことをしている自分の姿でした。

鬼か、夜叉か。

狂気に満ちた自分の姿が浮かぶたびに、戦慄し、固まっていました。



したことは、「許すこと」

自分を許しました。

そんなに恐ろしいことを想像しているのか、それとも無意識に押し込めていた願望なのか、前世の記憶なのか、わからない。

でもそこまで執着し独占したいと思っている自分を、許しました。

どんな罪を犯しても、わたしはわたしを許す。

そういう究極の許しを心の中で、経験しました。

彼を愛している自分を許す。

封印され、行き場所を失った情熱はねじ曲がり暗い炎となってしまった。

だから許す。

わたしはわたしを愛しています。

かけがえのない存在、それは自分。





2015年10月27日火曜日

罪人なんかじゃない

あなたは罪人なんかじゃない

愛に出会っただけ

ただ愛する人に出会っただけ



自分をそうやって認めた。

愛してはいけない人を愛してしまったという罪の意識でいっぱいだったあのころ。

恋から逃げることで、罪をおかさないようにと思っていたけれど、それは自分の保身だった。

傷つく覚悟も、非難される覚悟もなかった。

わたしは弱くて、自分のアイデンティティを、この地上の表層のかたちを守ろうとした。

本当は、わたしは、神さまから生まれた。

あの光、愛、輝き、それだけが本当のわたし。

その魂がもとに帰ろうとして、見つけた光。

この出会いがわたしをもとに戻そうとする。

ツインへの愛を認めたとき、こびりついていた「悲恋」の記憶がバラバラに風に飛んでいく。

本当の自分へと戻る旅。

本当の自分を愛する旅。

世間のかたちから、はみ出ていても、魂が輝くならば、それが真実。

恐怖に支配されていた人生が変わっていく。


2015年10月23日金曜日

100点満点でなくてもいい

不器用な二人の恋。

近づいては離れ、不意に心の扉を閉めるようなことをお互いしてしまう。

でもこれもわたしたちのプロセスなのかもしれない。

打率4割でイチロー、3割で一軍なのだから、毎回毎回クリーンヒットを飛ばさなくても、ぼてぼてのゴロのような対話になっても、別にいいのかも。併殺打を打ってしまって、もうだめだー!と頭を抱えてしまっても、まだまだ続く。


完璧主義者をやめても、大丈夫。そんなに肩に力を入れなくても大丈夫。



細く長く、ゆるゆると永遠を旅しているのだと気付いた。

あなたと共に。


2015年10月21日水曜日

家庭像への執着を手放す

執着を手放すことができました。

それは、夫への執着。あるべき家庭の姿への執着。

わたしの子ども時代は、家族も多く、親戚も多く、いつもわいわいがやがやとしていて誰かが家にいて、こんにちは〜という声が聞こえたらお客様が茶の間にいるのが当たり前でした。

子どもは、二人か三人、いつも笑い声が絶えなくて、遊んで、学んで、というホームドラマのような暮らしが「家族」であり、それを作るために結婚したのに、なぜこの人はそれに応えてくれないのだろう、尽くし方が足りないのだろうか?もっと尽くして良い妻になれば、いつかその「家族」は実現するのではないか。

40歳になって、それが無理だとわかったとき、絶望に包まれました。

夫は、実家の状況がよく似ていて、きっとこの人とならそういった理想の家庭を作れる、と「夫自身」を見つめることなく、結婚して、無理に結婚を続けていた自分に気づきました。

どうして離婚できなかったのか。

わたしは彼はいつか変わってくれるという願いという形をとった「不平不満」を抱えていたのでした。

ありのままの、夫を見つめると、自分のビジネスで成功すること、趣味を極めること、ひとりで完結する人生を送れる人。

それをわたしは、被害者になったり、救済者になろうとしたりして、なんとか理想の家庭を築かせようとしていたのだと。

いま、夫への執着を諦め、(諦め=明らかに見るということ)ありのままの自分たちを見つめたとき、すうっと執着を手放すことができました。

感謝しよう。

いま、健康で、自由時間がたっぷりある境遇に。

9年半の結婚生活で、自分がどれだけ傷つき、立ち直り、学び、成長したかを。



夫への興味と関心を、完全に断ち切ったことで、むしろありのままの彼を見つめることができました。

興味と関心といえば聞こえは良いけれど、要は自分の思い通りの夫像を押しつけ、そうでないと苛立ち、矯正しようとしていたのでした。

いま、夫婦であり続けることへの執着が途切れ、自分自身の人生に全力を尽くせるようになりました。

妻たるもの、夫を支え、自分の人生なんて思ってはいけない、どこかで刷り込まれた理想の夫婦像を手放すことができました。

妻である前に、わたしはひとりの女性。才能もやる気もある。

大丈夫。生きていける。




恐怖心に向き合う

ツインの住む街に出かける予定ができた。

会えるなら嬉しい。でも、忙しくて、今年は二回会えなかった。

不安でいっぱいになる。

もしまた会えなかったら?

メールを無視されたら?

立ち直れなくなってしまうんじゃないか?

生きることも難しくなってしまうんじゃないか。

恐怖で足がすくむ。

どうしたらいいのだろう。

またこのまま片思いに戻って、ひそかに思い続けていた方が幸せなのだろうか。

と迷っていた、3日間。



ふっと、「わたし彼と一緒になりたい。結婚したい」という心の本音が現れてきました。

そんな願いを持つなんてことを、自分に許すことができず、離れた16年前。

どんな状況であれ、状況は変化する。

わたしは、何を望むかをはっきりとさせるだけ。

願いが叶うかどうかは天にお任せして、自分が出来る限りの事、愛を伝えること、だけをしていこうと。

わたしの人生で男性は、ツインだけでした。

そして、そのツインと共に生きていくことを望む自分を許す。

社会の尺度で、罪とか罰とかを与えない。わたしは、神様にお任せします。わたしの望みは、関係者みんながハッピーになること、そしてわたし自身も犠牲にしたくない。

恐怖心は、味わうだけ味わってみよう。またこれからも波のように襲ってくるだろう。そのときは、「こんな恐怖を感じる自分は弱い」とか「まだ覚醒していないからかしら」とか責めるのはよそう。

何度でも、何度でも。そのために永遠はある。

2015年10月16日金曜日

愛を受け取る

「愛を受け取る」

これが、わたしの最大の課題です。

なかなか「ありがとう、嬉しい!」と純粋に愛を受け取ることができない。

「悪いね、ごめんね、気を使わせて」と、思ってしまう。

自分が気を使って、何かをして差し上げるのは大好きなのに、自分が厚意を受けることを申し訳なく感じてしまう。

そんなふうに、思われたら、わたしに何かしてくれる人も、すっきりしないだろうなあと思う。

純粋に喜ぶ顔が見たい。

それがわたしが持つ思いなら、きっとわたしにしてくれる人も同じ。

ツインからの愛情も、受け止められなかった。

17年前、逃げたわたしがすべきだったこと。

ただ出会えた喜びを分かち合うことだったのに。

今も、メールの返信が遅ければ、胸がつぶれそうに痛くなりながら、どこかホッとする。

もう終わりにできる。ツインソウルなんていう幻想に振り回された恋も終わりに。

でも魂は知っている。

終わりのない、ふたりの絆を。

逃げたって同じ。

同じ課題を、また何年たっても、何千年たっても、同じところから「はいスタート!」と始まるのだ。

だから逃げたって仕方ない。

愛を受け取る。

自分が愛される価値があるということを、信じる。

難しいなあ、、、




2015年10月11日日曜日

古い傷が癒されていく

ツインと出会って、17年。

断絶の15年を経て、再会。

この一年は激しく感情が動き、ツインソウルという概念を学ぶときでした。

この一年どんなに涙を流したことか。

こんなに好きな人をどうして忘れようとしたのだろうか、ずっと一緒にいたかったのにどうして自分の半身を引きちぎるようなことをしたのだろうか、一緒にいられたらこんなに孤独でつらい日々を送らなかったかもしれないのにという後悔。

逃げた自分への懺悔。

そんなものでいっぱいでした。

涙に、古い傷は少しずつ癒され洗い流されたのか、今は「これでよかったのだ」と思えるようになっています。

40代を過ぎ、もう子どもを望めない歳になってから再会したことで、純粋に、あなただけを見つめられる。

これから残りの人生、ずっと一緒にいたい。

忙しく走り続けてきたあなたと、見つめあって笑顔でいたい。

他愛のない望み。

これが若い頃だったら、経済力、体力、子どもが作れるかどうか、親戚付きあいも含めて、純粋なものに維持するのは大変だっただろうと。

男女共、どこかで計算して結婚するものですからね。それが経済活動を含めた、社会活動である結婚というものなのでしょう。

社会の維持存続に対してまっとうである(正しいと判断される)結婚は祝福され、秩序を乱すものは「悪」としておく。

それくらいのものなのでしょうね。

ひっそりとでも、ツインと手を取り合って、共に生きていきたい。

やっと、迷いなく思えるようになってきました。




親なんて仮のもの

「親なんて仮のもの」

この言葉を読んだのは、10年以上前のことでしょうか

父親にはべったりとして、ファザコン気味の私ですが、御多分に洩れず、母親とは心を開ききれない、緊張感が子供の頃からずっとありました。

ひとは生まれ変わりながら、親の役をしたり、子の役としたりして、学んでいくという考えを知ってからも、あまり母との関係はすっきりとしないものでした。

ずっと感じていたこと。

「お母さんはわたしのこと好き?」

という疑問。

忙しい家で、三人の子育てと仕事を両立しながら、忙しない日々を送っていた母。

姑との折り合い、親戚付き合いと、ゆったりとした時間はまったくなかったでしょう。

優しい言葉、温かい言葉は、母自身が祖母との関係で得たことがなかったため、わたしにとっては優しい言葉をかける母親像というのは「バカボンのママ」くらいのフィクションでした。

母は、いろんなことに批判的でしたが、特に男女関係には過敏に反応していました。

芸能人の方の不倫略奪婚!というゴシップには、「こんなことをするから罰が当たって病気になる」など、短絡的に結論付けては、こきおろすのが常でした。

わたしは、若い時にツインと出会い、相手が既婚者だったことで関係を続ける勇気を持てませんでした。

「普通の結婚、普通の出産」をしたい、反社会的なことをすることは罪で、それをとてつもなく恐ろしいことだと思っていました。それを誰に刷り込まれたかといえば、テレビとそれを倍増させる母の言葉だったのだと今は思います。

でもやっぱり忘れられず、今、ツインとは外から見ればダブル不倫と謗られても仕方のない関係。

何よりも、母に認めてもらえない関係なのだ、もしこれから先お互いが結婚を解消して一緒になるとしても母は認めないだろう。

そういう恐怖、コミュニティからはじき出される恐怖でしょうか、それが自分を支配していることに気づきました。



つみびとである自分。

それでも、きっとこの思いはやまない。

そこで出した結論は、「娘が不始末をしでかした」という役を母も演じて学ぶのだろうということ。

概念の結婚をして、「いい旦那でしあわせでしょ」とわたしの苦痛は見て見ぬ振りをする(ほんとうにわからないのかもしれませんが)母は、イメージの母、ではなくて、一人の修行中の魂で、どうしてもわかりあえないところがあるのだということを。

それを受け入れるだけで、ずいぶん楽になります。

母親とはこうあるべき、という自分の概念からも自由になれます。

40過ぎたら親を捨てよう。

こういうスローガンを広めたい。

実際に、面倒を見ないとか、介護しないということではなく、「親」という呪縛から自分を解き放とう。

そんなふうに思います。












人と人との付き合いとして

知り合って、何度かお話しして、自分がどんどん元気になっていく、その場に上昇気流が渦巻いていくのを感じるような高揚感を実感するお相手もいれば

なんとなく、はっきりと言われたわけではないけど、どこかトゲのある言葉、別れたあとにどんよりと気持ちが暗くなる、疲れるお相手もいる。

それは人と人との付き合いとして、合う合わないもあるし、エネルギー量にあまりに差があると、なかなか仲良くならないということもあります。

つい最近、友人だと思っていた人に、びっくりする言葉を投げかけられ、ああ、この人とはおつきあいできない、と連絡を静かに断ちました。

実はその方とは、なんとなく違和感を感じる、というのを何年も続けていたのに、表面上は大したことではないような小さなことだったので、自分が気にしすぎなのだろうか?と思っていたのです。

やはり、心の声は正しい。

このひととは合わない、このひとは私を傷つけ、利用しようとしている、そうはっきりと確信するまでは、小さな違和感として心は警告を発しています。

特に、私は感性よりも理性偏重で生きてきたせいか、「こうあるべき」「こうふるまうべき」という規範に自分を無理やり当てはめてしまうところがあります。

そうではなくて、もっと自分の心の声を聞こう。

あ、なんかおかしい、と思ったら勇気を出して距離を持とう。

そんなことに、きちんと向き合うことも、ツインとのプロセスのひとつなのではないかなと思う今日でした。




2015年10月7日水曜日

本当の自分に戻る旅



本当の自分へと帰る旅を、長い長い時間をかけて、経験してきたのだと実感しています。

17年前に彼に出会ってから、わたしの「清算」と「学び」は速度を上げてかなり過酷なペースで進みました。

いま穏やかな日々を生まれて初めて感じています。

何かになろうと焦っていたことも、このままの自分ではいけないと叱咤激励していたことも、すべて過去の話になりました。

妻とか、娘とか、そういった役割の名前に縛られる必要もないのだとようやくわかってきました。


本当の自分とは、自由で、輝く、愛に満ちた存在。


自分が愛に満ちているように、他のひとも、地球のすべてのいのちも、愛でできているのだと実感できること。

そして、本当の自分で生きるということは、ただ、目の前のことに全力を尽くす。

この地球で、できることを精一杯する。

それは、大きいことでなくてもいい。小さいことでも。

そもそも「大きい」「小さい」とは本質とは関係のないこと。



本当の自分へ帰る旅は、あなたと共に。

愛するひとに出会い、愛を知り、自分が愛で満たされる。

自分が愛でできあがっていたことを知る。

それが奇跡。

宇宙に灯したわたしたちの小さな光。

二人で持ち寄った灯りが、少しずつ大きくなっていく。

ドグマに縛られ凍っていた心と体が少しずつ温められていく。


愛しています。今日も。