カルマの法則とは、罰を与えられるということではなく、自分ひとりでは一面的にしか見えない、それゆえに、悪口を言ったり、せせら笑ったり、バカにしていたことを自分がその当事者になることで理解する、という面があると思うのですが、
先週のこと、わたしは常に「それって女みたいじゃない」と今の自分の境遇、専業主婦で仕事もない、ということを悔しく思い、卑下していることに気づきました。
ものごころついたころから、どうして自分は男じゃないんだろう、もっとバリバリ活躍したいのに、と思っていましたが、いかせんせん少し無理をするとすぐに倒れてしまう体力では、男並みに働くことはできず、「女みたいな暮らし」をせざるを得ないことに忸怩たる思いを持っていたのでした。
どうして、自分はこの体なのだろう?
細く、弱く、なよなよとして、体を使うことも鍛えることもできない。
もっと強くなりたい。
もっと働いて稼ぎたいのに。
女性らしく着飾ることを20代後半で覚えましたが、それは周りに明るい気分になってもらいたいからという、柔らかい心からではなく、単に男性ウケがよいから、でした。そしてそういうあからさまに変わる周りの変化を心の中でせせらわらっていました。単純ね、と。
わたしにとって着飾ること、化粧することは、歌舞伎の女形さんみたいに「女を演じる」という擬態のためのもので、武器で、武装でした。
心は男を捨てていない!じゃないけれど、「女」を、「女である自分」を、下に見ていました。
それに気づいたとき、過去世のいつか僧侶だったとき、「女は悟れない」「女が着飾って寺社詣でをしたところで無駄だ」といかつい容貌で話す自分の姿がパッと脳裏に浮かびました。
僧侶だった自分がバカにしていた、その「女」で生きるということがどういうことなのか。
わたしは今生、身をもって体験しているというわけなのでした。
魂に性別はなく、今はこの女としての人生を歩いている。
早く、この身を脱ぎ捨てたい、ではなく、これも神様、宇宙が作った貴重な体での体験なのかもしれない。
いろんな花に生まれ変わるように、今は、特に食用にもならない、風にふわふわと揺れているだけの花なのかもしれない。
弱者として生きる自分を俯瞰して、受け入れることができたとき、もっともっと世界を愛しく思えるのかもしれません。
そういえば、「女」として生まれて本当に良かった、と思ったのは、ツインに抱きしめられたときのことです。
それまでは「女」が嫌いなのだから、自分も当然嫌いでした。女であること、ツインと出会えたこと、それが嬉しいと思えたとき、もうひとつ、殻が取れた気がします。
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