2016年1月12日火曜日

神社で聴いたこと



今日の記事は、おとぎばなしだと思って読んでくださればさいわいです。

近所に最近よくお参りする神社があります。

今は人気はほとんどない稲荷神社ですが、その昔は参詣者にあふれ、霊験あらたかと誉れ高かった場所だそうです。

いつも、軽く手を合わせて通るくらいでしたが、あるときから、小さな茶色の子狐がぴょんぴょん走り回っているビジョンが見えるようになりました。

話しかけて、かわいいので、なでなでしたり、お菓子を持って行ってお供えするようになって、狐というと、ちょっと怖いというイメージとはかけ離れた可愛さでした。

何度かそういうことがあったあと、子狐たちが「オーマ」と呼ぶ白銀の狐も見えるようになり、それは本殿の脇にじっと座っていて、最近は暇なので眠っている、というようなお話が頭に流れ込んでくるようになったりしていました。

「人間は祈願するもの」

「それを大神様につなぐのがわたしの役目」


最近は、お参りすると子狐たちが「キガンは?キガンは?」と尋ねてくるようになり、わたしはふと、そういえば神社に祈願することはいけないことのような気がしていたなと気づきました。

「もう十分叶えていただいているよ。ありがとう」と断っても、「でもキガンあるでしょ。あるでしょ。」とじゃれてくるので、「お願いしちゃいけないようなことだと思うのよ」とツインと一緒になりたいと思うことの後ろめたさをつぶやくと、

「そんなことないって。だって大神様にとってニンゲンは子どもだから。なんでも叶えてあげたいと思ってるの。ちょっと神様に近づけば、神様は百倍近づいてくるの」



じゃあ、みんなが幸せになるような道を、と奇跡を願ってもいいのかしら?

神様からの恩寵と、ツインからの愛を受け取る準備をしてもいいかしら?


愛を与えることだけではなく、受け取ることも、自分に許してもいいのかしら?

自分はその圧倒的な愛にふさわしくないのではないかというためらい。それがずっとあったことを知りました。

自力に頼りすぎて、他力、すなわち神仏のご加護をいただくことを怠けとか弱さだと思っていた。

でも、自分を見つめれば、この身体、この命、すべて与えられたもの。それなのに「自分が自分が」と自力ですべてなんとかしようと思うところに、自我の強さがありました。

人を頼り、甘えてもいい。

力がひとつ抜け、またひとつわたしを縛っていた鎖がほどけました。









2 件のコメント:

  1. カミーユさん、こんばんは~~。素敵なお話しじゃないですかー。

    わたしこういうのもっと読みたい♡

    そんで、神様的には

    「ケーキ食べたい」っていう「キガン」も
    「ツインと一緒になりたい」って「キガン」も同じで、

    レベルの大小とかってないんだけど~~、

    ていうか神様だからなんでも言ってもらえれば叶えるんだけど、

    言ってもらわないと、ほら、人間の自由意思ってやつ??

    あれを尊重しないといけないやんかー。

    だから言ってもらわないことにはどうしようもないだよね~~

    って言ってたよ。

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    1. Yukoさん コメントありがとうございます。最近になってようやく神仏はずっと周りにいてくださって、いつでも手を差し伸べる準備をしてくださってたんだ!と気づいて感涙でした。願いの大小とかランク付けをするのは、人間の浅知恵でしたね(笑)
      このブログも長くなって、だいぶんタガが外れてしまってますが、お励ましありがとうございます。またこういうの書きますね。

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