根強い自己無価値観が、久しぶりにむくむくと湧き上がってきて、しばし格闘の時間を過ごしました。
ランナーとなった最大の原因は、この自己無価値観、
「自分なんて愛されるはずがない」
だったのですが、
もちろん、前世からの影響もありますが、前世から持ちこした課題は今生に現れて取り組む問題となっていると思うのです。
私の場合は、母親でした。
最近になってようやく、「わたしが子どもの頃、お母さんはいつもガミガミ怒っていたよね」と話すようになったのですが、当の母は「まったく覚えがない、あんたはいい子だったしあんたを怒った覚えはない」というのです。
下に二人いるきょうだいは、素直に言うことを聞く子たちではなかったのでしつけて怒っていたけどね、と。(きょうだいたちは怒られたことは覚えはない、と笑ってました)
つまり、子ども心には、きょうだいを怒る声はすべて聞こえますし、それが自分と他人という観念が未分化の状態で聞くと、悪いことをしていないのに怒られている、と受け止めたようなのです。
悪いことをしたら怒られる
悪いことをしていなくても怒られる(=きょうだいへの言葉も自分へのものと受け入れる)
絶対的な存在である母が、わたしが悪いことをしていなくても怒っているということは、「わたしという存在自体」への怒りなのだと理解してしまったようなのです。
わたしは何をしても自信がなく、受け入れられないだろうという恐怖を持って生きてきました。
もうひとつ、親戚がよく「あのおばちゃんによく似ているね」という伯母がいるのですが、母はその方のことを「あんなブスに似てるって言うなんて」と怒っていました。(折り合いが悪かったのでしょう)
子どもには大人の意見は絶対ですから、大好きな親戚のおばちゃんたちが言う言葉も、母の言う言葉も正しい、と思うものです。そこで「わたしはものすごく醜いのだ」と強烈にインプットされました。
さらに、もうひとつ、父のことは大好きでしたが、父は「ママが一番大切なんだよ」と言った日のことをよく覚えています。わたしはその日、初めて絶望という言葉を知ったのだと思います。
おおげさなようですが、子どもの心に、初めての人間関係である親との関係はほぼ100パーセントの影響を持ちますし、大好きな父は母を最も大切にし、母はわたしの存在を否定する。
わたしはそこで心を開ける場所を失いました。
誰にも心を見せられなくなりました。
今、こうして書き連ねていくと、自分にとっては大事件の3つの事柄も、母も若くて未熟で精一杯だったのだろうし、虐待とかそういうレベルの話でもないのです。
ですが、わたしの心の傷は大人にしてみたら何気ないところから生まれ、傷つけ、自分を縛り、行動を縛り、運命を歪めていきました。
ツインに出会うということは、そういった心の傷も全部あらわにして、自分たちが純粋な魂で、何をしてもどんな姿でも許し合い、愛しあえるという世界が突然現れるということで、わたしはそんなことが可能なのだろうかとまず疑いました。きっとこの人も、本当のわたしを知ったら、怒り出すだろう、と。
そして既婚者を愛するなんて、さらに存在を否定されるほどの罪だと。
そしてわたしは、ランナーとなりました。
いい子、でいつづけるために。
心を隠して生きるために。
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