2016年1月25日月曜日

業を燃やし尽くす

わたしは、嫉妬という業を持って生まれてきました。

父親が大好きだったので、母に嫉妬し、妹や叔母たちにまで嫉妬していたこともあります。

独占欲が強かったともいえます。

わたしの業を、持って生まれた石炭のような燃料だと考えると、燃やし尽くしたいと魂が願ったから、燃やし尽くすのに一番いい場所に生まれてきたのではないかと、今は思えます。

まだ持っていた嫉妬という黒い燃料は、ツインソウルに出会い、彼の配偶者に対しての強烈な嫉妬として現れました。

燃えるときは、自分も火に焼かれるようなつらさがあり、それから逃れたいという潜在意識で、ランナーになったのかもしれません。

今回の15年ぶりの再会、そして、狂うくらいの恋情と嫉妬は、恐ろしい勢いで、燃え上がりました。

ただ、今回は、わたしは逃げないと決め、その狂いそうな自分を必死で抱きしめ、大丈夫、これでいい、この感情を味わい尽くそう。と努力しました。

どうして、こういう形でツインソウルに出会ったのか。

それは、ツインソウル以外の男性の彼女や奥さんには、嫉妬など覚えないからです。

たぶん、夫に彼女がいたとしても、「どうぞ〜」というくらいで大した感情も動かないでしょう。

自分が強烈に求めてやまない相手、それなのに近づけない相手、世界で唯一の人と思えば思うほど、嫉妬の炎は燃え上がり、夜叉か鬼になってしまうのではないかと思うほどでした。

それが、1年半経って、ようやく、燃え尽きてきたのではないかと感じています。

どのみち、わたしにとって彼が絶対の存在であるように、もし彼にとってもわたしがツインソウルと呼べる相手ならば、わたし以外の女性に、触れたとしてもなんの感慨もわかないでしょう。

そこまで、魂の絆を信じられるようになってきました。



委ねるということ。

自分の身に起こる、感情の凄まじい変化であったとしても、それに身を委ね、そこでの体験を味わい尽くすこと、逃れようとしないこと。

それが、真の解放への道ではないかと、今は感じています。




2016年1月24日日曜日

ランナーの痛み


自分がチェイサーという立場になってわかること。

追いかけるわけではないですが、気持ちは追いすがっている部分も時折顔を出します。

そうなると苦しいですね。

どうして、連絡くれないの?
どうしてどうして?

ですが、以前ランナーとなった自分を思い返すと、ランナーのほうが何倍も苦しかったです。

忘れよう
忘れなくては

頭から追い出そうとし、忘れようとすればするほど、鉄条網が体に食い込むみたいに痛みを感じる

もがいて、血を流しているのは、ランナーのほうです。

ツインソウルを忘れよう、離れようとする試みは、自分自身を命の源から切り離す行為なので、生きている感触すら、自分に許さなくなります。

砂漠をとぼとぼと歩くように、乾きと苦しみを感じ続け、どうしてもこの愛から逃れられないとわかり、その痛みに身を委ねた時、ふわりと天使の羽に包まれるような経験をする

それは、傍目からはとてもつらい状況だし、一緒になろうよ、楽だし楽しいよ、といくらチェイサーが伝えたとしても、その痛みも含めてあなたの大切なツインが、経験したい旅なのです。

だから、信じて。

信じて、その時が来るまで。

自分を愛して、思い切り甘やかして、楽しませて、毎日を笑顔で過ごして、この素晴らしい世界を作ってくれた神様と遊ぶような気持ちで、待っていてください。






2016年1月22日金曜日

今の状況でなければ学べないことがある

今の状況でなければ学べないことがある。

腹をくくって、それを学ぼう。

と、自分の人生にフォーカスしています。

ツインに、メールをする気にはなれません。

その直感に従おうと思い、今は自分の過去に向き合い、恐怖に向き合い、前に進む時期が来たのを感じています。


自分がランナーだった時のことを思うと、「離れなければ」「会ってはいけない」という気持ちがとても強く、突き動かされるようにして拒絶していました。

その気持ちをツインも持っているのかもしれません。

もしかしたらそうでないのかもしれない。ただ、彼にとってはちょっとした遊びの恋で、どうでもいい存在だから連絡をよこさないのかもしれない。


それは、わたしにはわからないことですし、わたしが知ろうとか、状況をコントロールしようとすればするほど苦しむだけ。


今、わたしはかけがえのない「自分自身」という存在をもう一度手にしています。

自分の人生を生きたい。

ツインと一緒になりたいという思いは少しも変わらず、愛も変わらないのが本当に不思議ですが、わたしは、自信を取り戻し、自分の目でこの世界を見ることができるようになりました。

他人軸ではなく、自分の人生を生きること。

その強さを得るための、別離の期間だと感じるのです。




2016年1月20日水曜日

愛を選ぶという忍耐

忍耐という言葉は苦手でした。

耐え忍ぶ、自分には合わない、幸せではない場所でも、耐え忍びなさい、と言われているようで。

でも、最近、ツインとなぜ出会ったのかを考えていて、最高に幸せで輝いていた時にふっと出会い、そして再会も、最高に幸せで自由を感じたときだったことを思い出すと、今の現状がどうあれ、常に愛の波動でいることを選び続けることを自分に「忍耐」としてチャレンジしています。

やはり、ついつい、不安や恐れから来る思考に支配されるのが人間の脳というもの。

もちろん、不安になるし、もうこれからずっと会えなかったらどうしようと悲しくて仕方なくなるときもあります。

ただ、それでも、「神様は、わたしたちを作り、会わせてくださった。」と思い出し、愛と感謝の波動でいること。

そのために忍耐力を使いたいと思っています。




2016年1月16日土曜日

うまくやってやろうという気持ち

からだが、なんとなく重い。

取り組んでいたことにワクワクしない。

あれ?と自分を見返すと、「うまくやってやろう」「人に褒められよう」という気持ちが気づかぬうちに自分の中で巣食っていたことに気付かされます。

そうして、日々、ついてしまったほこりを払いながら生きるのがまたおもしろい。

うまくやりたい、という気持ちは、恐れと同類なのではないかとも思いました。

うまくやりたい、褒められたい、そこには他人目線があり、自分を批判し、思い描いた「うまくやる」レールに乗っていないときに、自分を責めようとする気持ち。

そのとおりにしなければ、落っこちるよ。人生だめになるよ、とどこかで刷り込まれた恐怖心が支配しようとするのです。

ワクワクするというのは、恐怖心からでもワクワクはします。

たとえば、20代のころなんとかお金儲けをしたくて、怪しげな株の投資のセミナーに行ったこともありました。そこには、恐怖に根ざした「お金を稼がなければ」「お金を持つことがえらい」という思いがあり、そこからでもワクワクはするのです。

本当は、わたしたちは、神とか宇宙とかそういう存在から完全に愛されていることを知り、ワンネスとか、一体感という言葉で表される、至福に常に包まれていることを知り、そこに身を委ねて、遊ぶように、人生という冒険を楽しむこと、それが人生なのだと。

ツインソウル体験は、赤の他人が、ワンネス、ひとつだと知ってしまい、他人としてみている頭はパニックになり、ひとりで隠してきたと思ってきた恐怖、猜疑心、罪悪感、自己卑下、他者を馬鹿にする思いも含めて、自分がネガティブだと思い隠してきたと思ってきたすべてが、この人にはわかってしまうとなぜか確信し、あわてて心の扉を閉じても、どうしても開いてしまうことに、恐れをなして、逃げる(ランナー)という体験も引き起こすわけですが、

この体験に降参して、身を委ねてしまうと、心はツインだけではなくて皆とつながっていて、自分が愛と光であることが、全世界への貢献につながるのだと、光の網のようなものがつながっていることを知ります。

ツインがこうしてくれたらもっと幸せなのに、うまく行っているツインもいるのに、このひとのツインソウルは離婚してきてくれたのに、と「もっとこうだったら」という気持ちは、自分なんてツインソウルなんかではなく、ただのスピのぼせの妄想なのだろうか?という思いにとらわれることがわたしもまだ時々あります。

でも、自分は神聖な存在なんだ、自分は素晴らしい光り輝く存在なんだということ、それはツインに遭っていてもいなくても、すべての存在はそうなのですが、わたしやこのブログを読んでくださっている方々は、ツインという体験からそれを知り、それを生きる、ときっと生まれる前に決めてきたのです。

だから、このワンネス、突然抱きしめられている感覚になったり、自分の感情ではない感情が押し寄せてきて涙にくれたりしても、それでいいのです。







2016年1月15日金曜日

幸せを希う

ここ最近の夫との関係の変化にはものすごいものがあります。

ツインと再会がかなった頃、その衝撃で、自分が押さえつけてきた感情が爆発するように白日の元にさらされる感じがありました。

そこで、見たものは、それまでの結婚生活で抑え付けてきた自分の気持ち。そして夫への恨み、怒り、憎しみでした。

自分が、夜叉になるかと思うくらい、夫が憎くて憎くて、声を聞くのも嫌でした。

お恥ずかしい低レベルさですが、夫が体調が悪い、というと、もうすぐ死ぬのだろうかと喜びを感じる程でした。

そんな感情を押さえつけてきた自分を、憐れみ、後悔し、悲しみに暮れて、それでも自分には必要な体験だったことを理解しようとして、何よりも自分が選んだ人生なのだから。

少なくとも、感謝だけはしようと思えるようになったのが、ツインショックの1年後くらいでしょうか。

そこからさらに半年が経ち、今は、夫の幸せを希うことができるようになってきました。

この人はこの人として、懸命に人生を生きてきて、結婚してから、自分では気づかずモラハラでわたしを苦しめ、わたしはその反応で鬱になり、それから少しずつ自分を変えて責任を取ろうとしてきたのだなと。

英語に、Two to tango という言葉がありますが、タンゴを踊るには二人いる。つまり、夫が夫が、と責任をなすりつけても、受ける側だったわたしもその役を引き受けていたのだからどちらが罪が重いなどということではなく、これも魂の磨き方の(荒っぽいですが)ひとつだったのだと今は思えます。

自分を、「良い妻」になろうとして縛り、常に自分を不十分だと責めていたことから解放し、自分を愛するために、小さなことから大きな願いまですべて聞こうと決めた時、わたしは本当に自由になり、自分の幸せも他人の幸せも願えるようになりました。

夫が本当に変わったのだなと思ったのは、わたしだけ3日間里帰りすることになった時のこと、「おかあさん(私の母)に、食材買って美味しいもの作ってあげてよ」と言ってくれたのです。

それまで、わたしが家を開けるというと、不機嫌になり、ぶすっとして、何か嫌味の一矢を放たずにはいられなかった人が、そんなに優しい言葉をかけてくれるようになったのかと思うと、子育て終了、ではないですが夫育ても終了の時期にきて、素敵な卒業証書をいただけたのだなと思えました。


わたしは、家でもよく笑うようになり、夫の前でもリラックスして自分自身でいられるようになってきました。

常にピリピリとして、ツインの前でしか、リラックスできなかった以前を思うと、自分も変化したことを嬉しく感じられます。

この愛に出会えたことを、改めて感謝して。




2016年1月13日水曜日

ピンクとゴールド

最近、本で、「自分の年齢は自分で決める」と読んで、自分が一番いいと思う年齢を自分で決めてしまおう、とわたしも自分を28歳と決めました。

そう思っていると、お肌もつやつやしてきて、体重はなんの苦労もなく4kg減り28歳の頃に戻りました。

28歳より前は、自分のイメージはガリ勉メガネで、申し訳ないですが光⚪︎靖子さんみたいな自己イメージでした。

28歳の頃を思い出すと、ウォーキングを始めたり、渋谷のおしゃれな美容室で髪を明るくしたりして、一気に自分のイメージを変えて、楽しくて仕方ない日々でした。

パステルピンクの服がよく顔に映える、とよく褒められていたのですが、ここ10年くらいは結婚相手がシックな服が好みで、かわいらしいワンピースを買うと「そんなの買ってどこに着ていくの」と嫌味を言われてしまうので、ベージュやジーンズばかり。

ツインに再会して、お花畑全開!となって女子に戻ったということもあるのですが、最近はピンクのセーターを久しぶりに買ったりして、ときめきを取り戻しています。

自分のオーラの色は、ピンクとゴールド!と決めて、きらきらした空気をまとっているイメージを持ち続けると、本当に幸せで、いいことばかりが起こる気がします。

女性は、ずっと花のように輝いて欲しい。

それは、もしかしたら功徳にも通じるくらい人の心を明るくするのではと思ったりして。

つい暗い色を着る機会が増える冬は、大きめのピアス(ゴールドとコットンパール)でピンクの手袋を忘れずに。

ピンクとゴールドのアイシャドウもメイベリンというメーカーで見つけて、お化粧をするたびに心がほわっと暖かくなります。

一つずつ、自分が本当に望むように着飾って、自分を可愛がってあげたい。

地上に花が増えたら、すでに美しいこの地球は、きっともっと素晴らしい場所になるでしょうね。

2016年1月12日火曜日

神社で聴いたこと



今日の記事は、おとぎばなしだと思って読んでくださればさいわいです。

近所に最近よくお参りする神社があります。

今は人気はほとんどない稲荷神社ですが、その昔は参詣者にあふれ、霊験あらたかと誉れ高かった場所だそうです。

いつも、軽く手を合わせて通るくらいでしたが、あるときから、小さな茶色の子狐がぴょんぴょん走り回っているビジョンが見えるようになりました。

話しかけて、かわいいので、なでなでしたり、お菓子を持って行ってお供えするようになって、狐というと、ちょっと怖いというイメージとはかけ離れた可愛さでした。

何度かそういうことがあったあと、子狐たちが「オーマ」と呼ぶ白銀の狐も見えるようになり、それは本殿の脇にじっと座っていて、最近は暇なので眠っている、というようなお話が頭に流れ込んでくるようになったりしていました。

「人間は祈願するもの」

「それを大神様につなぐのがわたしの役目」


最近は、お参りすると子狐たちが「キガンは?キガンは?」と尋ねてくるようになり、わたしはふと、そういえば神社に祈願することはいけないことのような気がしていたなと気づきました。

「もう十分叶えていただいているよ。ありがとう」と断っても、「でもキガンあるでしょ。あるでしょ。」とじゃれてくるので、「お願いしちゃいけないようなことだと思うのよ」とツインと一緒になりたいと思うことの後ろめたさをつぶやくと、

「そんなことないって。だって大神様にとってニンゲンは子どもだから。なんでも叶えてあげたいと思ってるの。ちょっと神様に近づけば、神様は百倍近づいてくるの」



じゃあ、みんなが幸せになるような道を、と奇跡を願ってもいいのかしら?

神様からの恩寵と、ツインからの愛を受け取る準備をしてもいいかしら?


愛を与えることだけではなく、受け取ることも、自分に許してもいいのかしら?

自分はその圧倒的な愛にふさわしくないのではないかというためらい。それがずっとあったことを知りました。

自力に頼りすぎて、他力、すなわち神仏のご加護をいただくことを怠けとか弱さだと思っていた。

でも、自分を見つめれば、この身体、この命、すべて与えられたもの。それなのに「自分が自分が」と自力ですべてなんとかしようと思うところに、自我の強さがありました。

人を頼り、甘えてもいい。

力がひとつ抜け、またひとつわたしを縛っていた鎖がほどけました。









我慢 頑張り ガンを生む

どうして、幸せになれないのかな?と考えているうち、自分を愛するということを徹底できていないことに気づきました。

これくらいの我慢なら、、、

もうちょっと頑張れそうだから頑張ってみるか、、、

実は、もうすでに十分すぎるほど我慢して、頑張っているのに、いつの日か刷り込まれた「もっと頑張れ」「我慢が足りない」という心のどこかから響いてくる声に操られているような気がしています。

もっと我慢しろ

もっと頑張れ

いったいこれは誰の声で、何を自分に求めているのか。

どうして幸せになることを自分に許してあげられないのか。

自分は未熟だから、どうしようもない人間だから、まだ修行が必要だから、と責め苛んでいることは、もしかしたら弱いものいじめと同じ、弱い自分をいじめているのと同じなのではないかと。

ずっとそうやって暮らしてきて、いい妻として、いい子として生きてきて、成長しろ、もっと頑張れと自分を責めてきて、いまの願いはたった一つ


「早く死にたい」


それだけが願いだと気付いた時、これは何か間違っているのではないか?とやっと気づきました。

生きることは苦行で、罪人である自分に日々、罰を与え続けるような生き方。

最後に、ガンで苦しんで、死ぬことを望むような生き方。

これは、おかしいのではないか?

さらに、心を見ていくと、


心の底でガンを望み、必ず死ねることを望んでいる自分に気付いた時、それは、はやくこの苦役から自分を解放してあげたいと望んでいることに気づきました。

そうか、自分を解放して自由にすることが、「死を望む」ことの本心の願いなのだと。

自由と解放、それを本当の本当は求めていて、それは現世では叶わない、自分などは叶えてはいけないという強力な鎖で自分を縛っているということに気づきました。


わたしの父などは、我慢も頑張りもせず、ただ行きたいように生きてやり尽くして、苦しみもせず肺がんで亡くなったので、そういうパターンもありますので、すべてのガンが我慢と頑張りから生まれるわけではありません。

ただ、もしこの記事にピンとくるものがある方は、頑張り過ぎていないか、我慢しすぎていないか、痛みを長いこと感じすぎて麻痺していないか、ちょっと振り返って欲しいと思いました。





2016年1月10日日曜日

波動の法則 引き寄せの法則

スピリチュアルなことをさほど信じていない方でも、波動の法則、引き寄せの法則はご存知のことと思います。


今の自分にぴったりの現実を引き寄せているということ、ネガティブな気持ちはネガティブな現実を生み、ポジティブな気持ちはポジティブな現実を生む。

その程度の理解しかわたしはわかっていなかったのですが、とあることがあり、それを不満に思うこともできる、という状況に昨日遇いました。

そこを落ち込むことなく、「ついてるなあ」と一言つぶやいたことで、ぱぱっとどのようについているかということを脳がひっぱりだし、回路をつないだような感覚があり、自分がどのようについているかが、よくわかる現実となりました。そこから、波動と引き寄せを考えていて、ツインとのことを思い返していました。



ツインと初めて会った時のことを思い出すと、それまでの積み重ねから心身ともに充実していて、楽しくて、自信に満ちていました。

そして初めて出会い、その衝撃と、惹かれあった日々があり、そのときは「どのみち片思い」と信じていたので、なんの結果も求めず、ただ憧れて好きで仕方なくて、目が合えば、出会うことができれば幸せでたまらないという1年でした。

初めて抱きしめられたとき、幸せに天にも昇る心地になりながら、その次の瞬間、このつながりが、お付き合いというかたちになるのかもしれないと思ったとき、ものすごい恐怖と不安にかられました。

きっと失う、失ってしまったら生きていけない。

その恐れに耐え切れず、自分から逃げランナーとなりました。

今回の15年ぶりの邂逅にも、同じような状況でした。螺旋階段を上るように人生は進むという感覚、自分の人生に自信がつき、とても充実し、どのように生きてもいいと自由を感じた瞬間、再び巡り会いました。そのときの熱いエネルギーが生み出されるような、力強さは今でもリアルに思い出します。

そして、2度目に会ったとき、二人の間には、不安、不信、失うという恐れ、が冷たい氷のように広がっていました。

それ以来、会うこともなく、もうすぐ1年が経とうとしています。

この同じ状況を繰り返したということに、昨日やっと気付き、何を引き寄せたのだろう?と考えていました。

わたしの中にある社会を逸脱する恐れ、うまくいかなくなるのではないかという不安、きっとあなたはわたしがいなくても生きていけるのでしょうという不信。

それが今の、状況を作り出したことが霧が晴れるように見えてきました。

結果とはなんだろう?一緒になること?
何を求め、何を恐れているのだろうか。

なんの期待も、見返りも、結果もおもわず、今この瞬間、限りない愛に包まれていること。

それだけが、知識を得ることやワークすることはひとまず置いておいて、自分のためにできることなのではないかと思い至りました。

今日は、幸せです。
神様、巡り合わせてくれてありがとう。




2016年1月5日火曜日

時が解決してくれることも

がんばって、がんばって、自分を癒すワークをして、努力し続けてきました。

それが、ツインと一緒になるための必要条件なのかと思っていましたが、それとこれとはちょっと違う。

自分の過去の傷を癒し、自分を大切にすることを学ぶこと、自分をありのままで思い切り愛すること。

それは、ツインとの出会いで浮き上がってきた課題で、どちらにせよ取り組むべきこと。

これが済んだから、ツインと一緒になる、ということではないのかも。

わたしは、わたしの人生を大切にしたい。

新年になり、今年叶えたいことを書き出していて、将来の理想の暮らし方を考えていて、自分が本当に笑顔で幸せでいる姿を思い描いてみました。


2016年1月4日月曜日

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

気づけば、このブログも二度目のお正月。

忘れられない昔の恋人との再会から、ツインソウルという言葉を知り、ランナーという言葉を知り、自分がランナーだったことに気づいて、その思いをつづってきました。

今は、彼がランナーになったかもしれないな、という状況で、(連絡をしなくなってから3ヶ月ですが)ツインソウルブログと言っていいものか、と思うこともありますが、日々小さく気づいていくことをシェアする場所としてほそぼそと書いています。

おそろしいくらいだったエネルギー交流もかなり落ち着いてきて、静かに高止まり状態です。

これくらいが日々を暮らすにはいいですね。

感情の嵐に、翻弄され続けでしたが、倫理観や社会の通念、そういったものをすべて敵に回してもいい、親子の縁を切られても、友人すべてを失ってもいい。

わたしはこの想いを貫く。

そう決めてから、本当の自分に戻り、輝きを取り戻し、心も体も柔らかく若さを取り戻しました。

次にする仕事も、とある霊能力も実務能力もある方にご縁をいただいて、強く勧められ、そちらでも形にしていくことが今年の作業となりそうです。

何度でも何度でも、諦めようとして忘れようとして、どうしてもできなかった。

執着ではなく、これは「進む道」なのだとやっと腑に落ちた気がします。

これからも迷うこともあると思いますが、自分の魂の声を指針にして、進んでいきたいと思います。


本年も、みなさまがツインソウルとともに光り輝く一年となりますように。


Camille