2015年6月6日土曜日
霊能よりも大切なこと
子どもの頃から、祖母は信心深いところがあり、通常の檀家としても供養を大切にしてました。
が、ときおり家族のいろいろなもめごとを、拝み屋さんのような霊能者の方に見ていただくことがありました。
思春期の頃から、そういった霊能者の方、突然霊能が開いた方、スピリチュアルに生きたくて無理をしててでも霊能を開こうとしている方を間近に見てきました。
祖母が、先祖がこういう人だということを全部当ててもらった!と話すのを聞いて、「知っていることを教えてもらってもしょうがないんじゃないのかな」と少し冷めた目で見ていたところもあり、お布施の額やら、お守りやら、、、高額なのはもちろんのこと、一律の値段というのもなんだか妙に落ち着かない気持ちがしていました。
周りの「信者」に崇められ始めると、偉い人のような振る舞いをしてしまうのが人間ですし、どんどん、相が曇っていくのが、敏感な子どもであるわたしには見えて、そういう人や道場は黒い雲がたちこめているようなひどく恐ろしい場所でした。一度、「家が寒いのですけど、ここにカーテンとドアをつけてもいいでしょうか」という相談をされている方を聞いて、通常でも出来る範囲の判断を、すべてゆだねるといういびつな精神になってしまう方を見ていました。
また別の時は、スピリチュアルな世界に関わっておられる方が、ご自身は霊能は開かないのを気に病んで、かなり無理矢理第三の目を開こうとしたりされたという話を間近に聞いて、それもひどく禍々しいものに感じました。
スピリチュアルも、エコブームにも感じるのですが、自分の方がよりものを知っている、「上だ」と思うことは、相対の世界の罠にどっぷりとはまっていることになります。霊能がないから自分は下だと思うことも。
今は、神から与えられた肉体で、表現し尽くせぬ思いを、それでもなんとか伝え合って、愛し合うことしか、できない。
そんな短い一生ですが、それでいいのだなと思うようになりました。
たいしたことはできないかもしれない。
一歩一歩、歩んでいくしかない。
無力で、非力で、
自分と、せいぜいツインしか愛することはできないかもしれない。
でも、神様はこんなに素晴らしい肉体と、世界を与えてくださり、そこで遊ぶことを許されているのがわたしたちなのだと。
昔、聖書で読んだ「小さきものにしたことは、わたしにしたことである」という神様のお言葉、わたしは「小さきもの」を社会的弱者のようなかわいそうな人、だと思っていたのですが、それはもしかしたら「自分」なのかもしれないと気づきました。
まずは自分を愛し、大切にしよう。
何もできない存在かもしれないけど。
でも今、この瞬間、とてつもなく愛されているのだと。
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